柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.17

ドイツ留学時代の北里柴三郎(右)と後藤新平(左)

北里柴三郎と、初代内閣鉄道院総裁などを務めた官僚・政治家の後藤新平とは、生涯にわたって深い親交があった。

東京大学医学部を卒業して医学士となった柴三郎は、1883(明治16)年7月、内務省衛生局に勤務することになった。そこには、半年ほど前に入省した後藤がいた。4歳下でありながら、待遇も月俸も自分より上の後藤の部下として働くことに柴三郎は不満を持ち、さらに生来負けん気が強い2人は当初は犬猿の仲だったという。

1885(明治18)年、柴三郎は、世界的な細菌学者のローベルト・コッホに師事すべくドイツへ渡航した。コッホの指導の下で病原細菌の研究に入り、1889(明治22)年、「破傷風菌の純粋培養」に成功。その翌年には「破傷風毒素の抗体(抗毒素)の存在」を発見し、近代免疫学の基礎を確立する偉業を達成した。

後藤も、ヨーロッパの衛生行政の実情を知る必要があると考え、1890(明治23)年に自費でドイツに留学。コッホを訪ねると、柴三郎から指導を受けるように指示され、内務省での先輩・後輩の関係なく柴三郎の下で学ぶことを望んだ。それから、2人は終生の盟友となる。

1892(明治25)年に2人は帰国。同年、大日本私立衛生会が運営する日本最初の私立傳染病研究所が芝公園の一角に創立された。衛生会の委員として、柴三郎、後藤のほか、後に東京駅を設計した辰野金吾も名を連ねている。これも不思議な縁である。

その後は別々の道を歩んだ柴三郎と後藤だが、1915(大正4)年12月に行われた北里研究所の開所式には、後藤も来賓として招かれ、祝辞を述べている。

後藤は1929(昭和4)年、柴三郎は2年後の1931(昭和6)年に他界。永眠の場がともに青山墓地であることも、実に因縁深い。

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