柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.16

北里大学の附属病院の原点である、土筆ヶ岡養生園(左)と北里研究所附属病院(右)

1892(明治25)年、ドイツ留学から帰国した北里柴三郎は、伝染病の予防治療に取り組むため、福澤諭吉らの援助の下、芝公園に私立伝染病研究所を設立。そして、翌1893(明治26)年には、白金にある福澤の所有地に日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開院した。すると、柴三郎の名声を聞きつけた患者が押し寄せ、60余りの病室は瞬く間に満室に。その後数年にわたり増築・増床を行い、200人の患者を収容し得る規模にまで発展した。また、柴三郎は「病院で最も重要な要素は看護婦である」との考えから、養生園開院の3年後には、1年コースの看護婦学校を開校した。

1915(大正4)年、養生園の一隅に北里研究所を創立。その後、1917(大正6)年には、木造2階建て、普通患者21人、伝染病患者36人を収容することのできる「北里研究所附属病院」の開設に至る。病院が建つまでの期間、結核患者の診療、サルバルサンの注射、狂犬病の予防注射などは養生園の外来にて対応し、開設当初も養生園の一病棟を使用していた。当時、伝染病は腸チフス、ジフテリア、猩紅熱、赤痢などが多かったが、破傷風、ワイル病、流行性脳脊髄膜炎、丹毒なども年間相当数に達した。狂犬病の予防注射は北里研究所を含め3か所でしか行われていなかったため、一度狂犬病が発生すると病院は予防注射を受けにくる人でたちまち大混雑となった。

1931(昭和6)年、柴三郎の逝去により養生園の施設はすべて北里研究所へ寄付され、その後、附属病院と併合した。1945(昭和20)年の戦炎においてほとんどの病院施設は焼失したが、その後の再建、病棟増築を経て、現在の北里大学北里研究所病院として発展している。

「土筆ヶ岡養生園」そして「北里研究所附属病院」は、今日の北里大学の附属病院の根幹であり、その伝統の原点なのである。

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