柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.13

1924年、ロックフェラー医学研究所から送られた野口の手紙。柴三郎が男爵位を賜ったことへの祝いと、渡日が決定したロックフェラー国際衛生局主任のラッセル・マーカーとの面会を依頼する旨が書かれている。

1898(明治31)年、順天堂医院長・佐藤進の紹介という若者が、伝染病研究所を訪ねてきた。背の低い風采のあがらなそうな若者は、なぜか左手のあたりを気にしながら、野口清作と名乗った。後の野口英世である。

野口は秀才だった。一歳半のとき、いろりに落ちて左手をおおやけどし幼少時代はそのせいでいじめられながらも、母のためにと勉学に励んだ。高等小学校を卒業後、若松の会陽医院の書生として医学を志し、上京後は済生学舎(現・日本医科大学)に半年ほど通っただけながら、医術開業試験を前期・後期共に一回で合格し、大変難しい医師資格の取得を果たしている。

柴三郎は、野口を助手補として採用することにした。しかしあるとき野口は、研究所の貴重な蔵書を紛失させてしまう。柴三郎の特大の雷が落ち、野口は人里離れた横浜海港検疫所へ異動させられた。とはいえ、伝染病の上陸を阻止する検疫所の任務は重要であり、野口の異動には彼の才能を買っていた柴三郎ならではの配慮もあったと思われる。野口はそこで横浜初となるペスト患者を発見するなど、後につながる活躍を見せた。

野口は英語にも強かった。米ジョンズ・ホプキンス大学病理学の権威シモン・フレキシナーが赤痢研究のため来所した際には、通訳を任されたほどである。

1900(明治33)年、国際防疫班の一員として清国でめざましい活躍をみせた野口は、柴三郎の紹介状を握り締めてフレキシナーを訪ねた。かねてより、野口は海外で研究に励むことを望んでいたのである。ここを足がかりにロックフェラー医学研究所へと進み、野口の才覚は一気に花開く。毒蛇やスピロヘータの研究で頭角を現し、柴三郎にも多くの論文を送った。

1924(大正13)年、野口から柴三郎に一通の手紙が届く。野口が伝染病研究所にいたのは、一年あまりだが、柴三郎は野口の才能を認め信じ続けていた。野口からの手紙を、柴三郎はどのような気持ちで見つめていたのだろうか。この手紙が後世まで残っていることが、その答えなのかもしれない。

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