柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.12

1915(大正4)年の開所式でスピーチする柴三郎。

<設立当時の北里研究所の概要>
組織:研究部、臨床部、講習部、検査部、製造部、飼育部、事務部
研究部8科:細菌学科、血清学科、病理学科、生物化学科、医動物学科、化学療法科、結核科、獣疫科

1914(大正3)年、北里柴三郎が所長を務めていた国立伝染病研究所は、政府の方針により突如として文部省に移管され、東京帝国大学の付属となる旨が発表された。伝染病の研究と衛生行政は表裏一体であり、研究所は内務省所管であるべきとの信念をもっていた柴三郎はこの決定に承服できず、所長の座を辞する。附属病院の関係者たちも彼の後を追い辞職しようとしたが、柴三郎は入院患者のためにとどまるよう説得。その他の技官たちが免官の辞令を受けた11月5日付けで、「同志同僚の希望により、研究所の歴史に鑑み余の名を冠して北里研究所とせり(柴三郎談)」と新たな研究所を設立した。

当初の施設は設立の慌ただしさを象徴するように、1893(明治26)年に東京・白金に創設した日本初の結核専門病院・土筆ヶ岡養生園内の一棟に表札を掲げただけのものだった。それでも養生園での蓄財や森村市佐衛門ほか多くの市井の人々の貴重な寄付などにより、一年後には敷地面積約2,500坪の私立「北里研究所」が竣工した。

12月11日、恩師ローベルト・コッホの誕生日に挙行した開所式には、清浦奎吾、後藤新平、原敬のほか貴族院・衆議院議員、海・陸軍の衛生部員、医学者など2,000名を超える出席者が参列。光の変化が少なく顕微鏡の観察に適した北面に研究室を配置するなど、研究本位の設計を施した新所屋を披露した。

冒頭の挨拶で柴三郎は、現代の微生物学は実験を基盤とした研究により、医学全般の基礎を作っていると力説。またどんな学者がどんな研究成果をあげ挙げても、実生活で利用できなければその研究は「人生に何等の効果を及ぼすことは出来ない」と実学の意義を改めて強調した。そして、「北里研究所の事業も世界規模での医学発展において、医学あるいは衛生学のみならず他の領域まで侵入しまして農業、水産、工業などその他にも我が微生物の研究を応用して国家、社会に貢献したい考えであります」と述べ、聴衆から万雷の拍手を浴びたのであった。

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