柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.11

二人の似顔絵が人柄を偲ばせる、ラウソンの私信。
青山胤通らの治療状況やペスト撲滅への決意などが綴られている。

中世ヨーロッパの時代からたびたび大流行したペストは、敗血症を起こすと皮膚に黒いあざのような出血斑ができる様相から、黒死病とも呼ばれ恐れられていた。そのペストが1894(明治27)年、香港で流行との一報が日本に届いた。何千万人もの命を奪ってきた怪病が我が国に飛び火したら大変なことになる。政府はさっそく、柴三郎や帝国医科大学教授の青山胤通らからなる調査団を香港に派遣した。

英国領の香港で一行を迎えたのは、香港政庁の英国人医務官ジェームス・ラウソンだった。最高責任者としてペスト現場を取り仕切っていたラウソンは、蔓延を恐れ暴徒化した住民を鎮圧しようとしていた英国駐留軍が次々とペストに倒れていく状況に頭を痛めていた。そこでラウソンは「東洋のコッホ」とも称されていた柴三郎にペスト調査を一任することを決断。施設の準備から関係機関への配慮まで献身的な協力をみせた。

儒教が根ざす香港では、死者への尊厳から遺体解剖を極度に嫌う。調査に不可欠な解剖は、ラウソンの擁護のもと周囲の目を避けて行われた。日本の梅雨以上に湿度の高い環境で、窓を閉めきった狭い部屋。悪臭と水不足。乏しい器材。それでも調査を開始した4日後、柴三郎は病原らしき細菌を同定する。さらに検証を重ね、「ペスト菌発見」にこぎつけたのである。

ところが、劣悪な衛生状況が牙をむいた。解剖を担当していた青山と、柴三郎の助手を務めた伝染病研究所の石神亨が、何とペストを発症してしまったのである。危篤に陥った両名はやはりラウソンによる手厚い治療を受け、奇跡的に一命をとりとめた。さらにラウソンは柴三郎に、今回の成果を英国の権威ある医学雑誌ランセットで発表することを進め、論文の英訳を自ら買って出たのであった。

柴三郎を信頼しすべてを委ねたラウソンと、その期待に応えた柴三郎ら調査団。人類とペストとの戦いは、この日英連合により勝利への大きな一歩を刻んだのである。

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