柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.10

1896年、福澤諭吉から柴三郎が経営する土筆ヶ岡養生園に届いた書簡。
諭吉は養生園から配達された牛乳ビンに汚れを見つけ、『今日僅かに養生園の盛なるを見て、皆々安心得意の情を催し、浮世の流風に浴して本来の本務大目的を忘れたるか』と厳しく批判した。
柴三郎は常に立ち返るべき指針として、生涯この書簡を所長室に掲げていた。
1.47mにもおよぶこの書簡は、いまも北里研究所の「宝」として受け継がれている。

人生の折々、幾人もの師に恵まれてきた柴三郎であるが、国内においてはまず福澤諭吉こそが、その筆頭と言えるだろう。

留学での知見に基づき「日本にも伝染病の研究所を」と訴える柴三郎が政府から冷遇されていると聞いた諭吉は、1892(明治25)年、私費を投じてその設立に尽力。翌年には所有地も提供し、日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開設させた。また伝染病研究所が愛宕に移転拡張しようとした際も、諭吉は移転先の住民が興した反対運動の鎮静にあたりつつ、書簡で柴三郎を激励している。その一方で、時に諭吉は柴三郎を、気迫をこめ叱りつけてもいる。

開設から3年を経た養生園には、柴三郎の名声を聞きつけた多くの患者が全国各地より訪れていた。そんなある日、養生園から諭吉宅に届けられた牛乳のビンが、わずかに汚れていたのである。諭吉はすぐさま「一ビンのミルクは以て病院の百般を卜(ぼく)すべく薬局の怠慢、料理場の等閑(なおざり)、医師診察法の不親切等実に恐るべき事に候」と一筆啓上。いやしくも人が生命を託す病院において、この不潔な様は何たることか。現実には無害であったとしても、それを伝え聞いた人々はどう受け止めるか。手紙を読んだ柴三郎は諭吉のもとへ駆けつけ、伏してさらなる叱責を受けとめた。

「大業に志す者は畢生(ひっせい)の千辛萬苦に成るものなり。細々百事に注意して辛うじて目的の半に達するの常なり。」憤慨の中にも指導者としてどうあるべきかを示唆したこの書簡には、諭吉の柴三郎にかける期待と、父子のようだったとも言われる両者の交情が感じられる。

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