柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.9

自ら考案した嫌気培養の実験器具と柴三郎。手にしているのが「北里式亀の子コルペン」。
論文「破傷風菌について」の手書き原稿

北里柴三郎がローベルト・コッホのもとで研究に没頭していたドイツ留学時代、すでに破傷風は、患者の膿中で常見される、太鼓のバチ状をしたニコライエル菌が病原菌ではないかという想定がなされていた。

破傷風菌の病原菌として特定するには、当時基準とされていた「コッホの三原則(必ず一定の形で罹患組織に存在し、その菌を単独で培養したのち、疾病を再現できなければならない)」をすべて満たす必要がある。しかし、ニコライエル菌の純粋培養には多くの研究者が取り組んでいたものの、誰も成功には至らずにいた。

そうした中、コッホに並び細菌学の権威として称されていたゲッチンゲン大学のカール・フリュッゲは、「破傷風菌は常に他の金と共棲する性質があり、純粋培養はできない」とする説を発表。これが正しいとなれば、今後の治療法開発も難しくなる。「できないならば、できないなりの何かがある」と考えた柴三郎は、自ら純粋培養の難関に挑むことになった。

夜を日につぐ観察と研究のすえ柴三郎は、ニコライエル菌は、酸素があると動きが鈍くなる嫌気性菌との着想を得た。酸素のない培養環境を作り出せれば純粋培養ができる。これだと膝を打った柴三郎は、ガラス容器内に水素を送りこみ酸素を追い出した後に溶封する、独自の培養装置を考案した。

この装置による実験で1889年(明治22年)、柴三郎は世界初となるニコライエル菌の純粋培養に成功。培養した菌から破傷風の症状が再現できることも実証し、破傷風菌として同定した。翌年には破傷風菌の毒素も発見し、免疫抗体の発見・血清療法確立へと道を拓いてゆくこととなった。

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