柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.8

柴三郎による講義風景。講習会は全100回開催され、4,000名以上が受講した。

1886(明治19)年からドイツに留学し、ローベルト・コッホのもとで細菌学を学んだ柴三郎は、1892(明治25)年に帰国すると伝染病研究所を創設。所長に就いてさらなる研究に励む傍ら、留学で得た知見の普及と日本医学の発展をめざし、独自の講習会を開くことを決意した。

内容はコッホがベルリン大学で行った研修にならい、細菌学や伝染病治療などの実習に重きをおくもの。医師免許保持者を対象に、顕微鏡による検査法や培養法、臨床診断などを徹底的に指導した。

1期3カ月・年3回の開催で定員は各5~6人の少数精鋭型だったが、志願者が殺到したため、開始翌年には20名以上に増員された。また研究所が国立となった1899(明治32)年からは対象を獣医師や歯科医師にも広げ、講習会出身者は衛生技術官などとして全国で活躍。衛生行政の進歩に大きく貢献した。

1914(大正3)年、北里研究所を設立すると、実習室、研究室などを備えた講堂を新設。定期講習会とは別枠の補修も開講する。さらに翌年からは特別講習会も随時開催されるようになり、受講生たちは柴三郎はじめ志賀潔や後に第2代所長となる北島多一らの厳しくも温かい薫陶を受けた。

講習会は柴三郎の没後も継承されたが、第二次大戦の影響で中止を余儀なくされる。それでも志は尽きることなく、戦後になるとワクチン量産にあたる所員教育として復活した。医療を牽引し、生命科学を開拓する、若き力。その育成に注力した柴三郎の意志は、やがて北里大学創設へと発展し、現在に至っている。

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