柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.5

日本で初めて人工免疫血清を施したヒツジ、北里柴三郎、梅野信吉の写真。
このヒツジが日本における血清療法研究の始まりであった。

1893年(明治26年)、伝染病研究所の所長を務めていた北里柴三郎は、1頭のヒツジを迎え入れた。ドイツ留学中に血清療法を発見した彼は、日本での実用化をめざし、伝染病・ジフテリア血清の製造に乗り出したのである。

ジフテリアは発熱や喉の痛み、体力の低下をともない、最終的には呼吸困難を引き起こす伝染病。当時、こどもを中心に世界中で流行していた。日本でも毎年数千人が感染し、その半数以上が死亡するという恐ろしい病気だった。

血清を製造するにあたり、柴三郎の右腕として尽力したのが、獣医・梅野信吉だ。動物を扱う血清の製造には、獣医の協力は欠かせない。しかし、他の研究者に比べて学歴の低かった梅野に活躍の場を与えたのには、学歴・経歴にとらわれず、「すべて事業の成敗は人にあり」を信条とする柴三郎ならではの決断があった。柴三郎に見出された梅野はのちに、純牛痘苗の成功、犬体用狂犬病予防ワクチンの開発など、様々な業績を残している。

柴三郎たちは、ジフテリアの病原菌の出す毒素を無毒・弱毒化した上でヒツジに投与した。毎回、少しずつ投与する量を増やしてヒツジの身体を慣れさせ、体内の免疫抗体の量を増やしていく。翌年、この血清は入院患者などに接種され、実に90%以上の患者が治癒するという結果を生み出すことに成功した。

97年(明治30年)、柴三郎は日本細菌学会発行の「細菌学雑誌第十九号」でこのヒツジを紹介し、幾多の苦痛に耐え、医学、そして人類のために身を捧げたこのヒツジへの感謝と功績を称え『第一救生号』の称号を与えている。

柴三郎と梅野、そして『第一救生号』との出会い。このキセキが日本医学の大きな一歩となった。

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