柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.4

橋本家に預けられた柴三郎は、毎日、心を込めて縁側を磨いた。
熊本県教育委員会 道徳教育用郷土資料「くまもとのこころ」より

北里柴三郎は、清和源氏の流れを汲む熊本の総庄屋の家に、長男として生まれた。幼い頃から体がたいへん丈夫で、ほとんど病気にかかったことがない。しかも並はずれた力持ちで、人一倍の負けず嫌い。武術を好み、学問は二の次だった。

柴三郎の両親はとても厳格で、文武両道が絶対。そこで、柴三郎が8歳のとき、父方の伯母・満志(まし)の嫁ぎ先である橋本家に預けることにした。満志は柴三郎に行儀作法を教え、叔父・淵泉(えんせん)の父親である龍雲(りゅううん)は、儒教の基本書とされる四書五経を毎日、素読させた。この時の柴三郎のエピソードが、熊本県の道徳教育用郷土資料で紹介されている。

ある日、勉強を終えた柴三郎が遊びに出かけようとすると、満志に「まず縁側を拭きなさい」と呼び止められた。満志は、「橋本家の一員として役割分担をもつならば、けっして遠慮する必要はない」と、毎日縁側を拭くよう柴三郎に言いつけてあったのだ。翌日、柴三郎は自ら縁側を雑巾がけし、もういいだろうと遊びに出ようとすると「待ちなさい。もっと磨けばきれいになるはずです」と、また止められた。

負けず嫌いな柴三郎が、これでもか、と磨き上げるうちに、縁側がだんだん光ってきたではないか。嬉しくなった柴三郎は、毎日、勉強が終わるとすぐに、進んで雑巾がけをするようになった。ピカピカになった縁側は、その後、橋本家の家宝にされたという。

柴三郎は橋本家で2年という月日を過ごした。後年、応援してくれた多くの人たちの期待を一度として裏切ることがなかったのは、妥協せず物事に取り組む満志の教えが大いに影響していると言えるだろう。

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