柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.2

唯一残る2人だけの記念写真。
ローベルト・コッホ博士(左)の来日時に広島・厳島神社にて。

「ドイツ語の流暢な日本人」―それがローベルト・コッホの柴三郎への第一印象だった。

コッホは1905年にノーベル生理学・医学賞を受賞した近代細菌学の父。彼のもとには世界中から研究者が集まり、柴三郎もその一人であった。

当時は名も知られていなかっただろう国から来た東洋人。しかしコッホは「ドイツ人にも彼ほど熱心な研究者はいない」と柴三郎の努力を認め、また彼も期待に応え多くの業績を残した。彼が留学期間を二度延長したのも、コッホの強い奨めがあったからこそである。

柴三郎は己の業績すべてをコッホの指導の賜物と感謝し、帰国後もその恩を忘れることは決してなかった。その心を示すように、1908年にコッホ夫妻が来日した際には74日間の滞在をほとんどつきっきりでもてなしたという逸話がある。

1910年、コッホの訃報を聞くと柴三郎は深く悲しみ、研究所内に遺髪を祀るコッホ祠を建てた。毎年の命日には追憶祭を行い、生涯これを絶やすことはなかった。

研究態度はもちろん、その所作や筆跡、いびきにいたるまでコッホにそっくりだとコッホ夫人を感嘆させたほどの柴三郎の敬愛。彼に憧れ、彼のもとで学んだ6年間をどんな想いで過ごしたのだろう。

今年、コッホ没後100年を迎える。遠く離れた国の2人が出会い、絆を育んだこのキセキは、時を越えて人々の心に刻まれている。

 

※広報誌「雷」No.2(2010年4月発行)より引用

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