柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.1

明治時代に北里柴三郎が、ノーベル賞の有力な受賞候補に
なっていたことが明らかになった1988年の読売新聞

1949年(昭和24年)、湯川秀樹博士が日本人で初めてノーベル賞を受賞した。 しかし、信じられるだろうか。実はその48年も前、ひとりの日本人に受賞の可能性があったのである―。

一部に公開されたノーベル財団の資料から、1901年(明治34年)、ノーベル賞第1回医学・生理学賞の有力候補に、北里柴三郎の名前が挙がっていたことが明らかとなった。ペスト菌の発見や破傷風・コレラの血清療法という画期的な治療法を発見していた彼は、このとき最終選考の15名の中にも残っていた。

ところが受賞したのはノミネートすらされていなかった彼の共同研究者、ドイツのE・ベーリング。まさに大どんでん返しであった。彼らの共同研究・ジフテリアの血清療法が主な受賞理由であったが、その血清療法は柴三郎が開発した方法の応用であり、論文も彼らの共著。しかし彼が受賞を逃したのは、選考の過程で「ベーリングのサポート役に過ぎない」と判断されたことが理由だと、後に報じられている。

明治34年といえば総理大臣が伊藤博文から桂太郎に交代、八幡製鉄所が操業を開始し、アメリカの蒸気機関車が初めて輸入された年。庶民の服装は着物に草履や下駄が一般的で、町には鉄道馬車が走っていた。そんな時代に、日本人が世界に認められる研究成果を残していた。

栄誉・名誉に固執することなく、伝染病の撲滅にその生涯を捧げた北里柴三郎。ノーベル賞こそ逃したものの、彼のスピリット―それは確かに今も息づいている。

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