柴三郎のキセキ

学祖である北里柴三郎はどのような軌跡を歩んできたのか。さまざまな功績に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。

vol.14

北里大学は1962(昭和37)年、北里研究所の創立50周年記念事業として衛生学部から創設された。以降、薬学部(1964年)、畜産学部(1966年)と拡充され、1970(昭和45)年には日本で戦後初となる医学部を開設。同年3月に認可を受けるとさっそく学生を募集し、5月16日に第一期生の入学式を挙行している。北里大学医学部は、従来の講座制と医局制度を排するとともに、清新の気風に満ちた医学教育の実践に努め、広く内外で活躍する人材を輩出しながら今日に至っている。

ところで北里柴三郎記念室には、一編の古い新聞記事が所蔵されている。1915(大正4)年9月7日付の大阪朝日新聞によるその記事では、なんと前年に北里研究所を設立したばかりの柴三郎が、すでに同研究所を付属とする「北里医科大学」創設を計画していたと報じているのだ。計画の内容も、私立の日本医学専門学校(日本医科大学の前身)と女子医学専門学校(東京女子医科大学の前身)を合併することで母体をつくり、建物は伝染病研究所の施設払い下げを待って買収・増築、教職員や寄付金の見通しについても、具体的に述べられている。

当時の柴三郎は、研究所を軌道に乗せるため東奔西走しつつ、研究所設立にも尽力してくれた福澤諭吉の恩に報いようと、慶應義塾に発足が決まった医学科の初代学科長に就くべく多忙を極めていた身である。さすがに大事業を並行させるのは困難すぎたのか、「北里医科大学」計画はこの記事以降、とくに続報は確認されていない。これは日ごろ報恩を旨とする柴三郎が、己の名を冠した施設よりも、構想を活かしつつ恩師の大願も果たせる途を優先した結果―ではなかろうか。

1917(大正6)年、慶應義塾大学医学科創設の席で柴三郎は、一貫して唱えてきた「基礎・臨床一体型医学・医療」の実現を掲げ、真に社会に貢献できる実学としての医学を目指すと述べた。ちなみに同科は1920(大正9)年、私学初の大学医学部となり、柴三郎の言葉は現在も、慶應義塾大学医学部の理念として受け継がれている。

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