日本列島の太平洋岸を沿うように、南からマグロやサバ、アジ、イワシなどを乗せた黒潮が、北からはブリ、サケ、サンマ、カニ、イカなどを運ぶ親潮が流れる。遠くフィリピン沖から流れてくる黒潮は世界最大級の暖流だ。一方の親潮はオホーツクを経て流れ込む寒流で、さかなの餌となるプランクトンを豊富に含んでいる。その両者がぶつかり合う「潮目」は、世界有数の水産資源の宝庫となる。

沖合で黒潮と親潮が交わる岩手県三陸町(現・大船渡市三陸町)に、八木健一郎がやってきたのは、北里大学の2年に進級した春だった。

「水産学部(現・海洋生命科学部)のキャンパスがあるから移り住んだ。ただそれだけのことです」

将来に目標を描いての大学進学ではなかった。医者の家系に生まれたが、自分が何者だかわからないのにそこにあるレールに乗る気にはなれず、半ば反発して水産学部を選んだ。生物が好きという、子どものころからの唯一確かな思いだけが頼りだった。

「大学はそれなりに楽しかった。けれど、いくら自分に問いかけても、自分が何者で、どこに行けばいいのか答えは見いだせませんでした」

ただ、三陸に暮らす中で、自分の内面ばかりを見続けていたかつてとは違う、もう一人の自分の存在に気づくことがあった。

「毎日口にする食材、なかでも海産物がうまい。生まれ育った静岡も駿河湾に面した海産物の豊富な土地柄ですが、潮にもまれたさかなはひと味もふた味も違うんです。それに、食材がバラエティーに富んでいる。スーパーにマンボウの切り身が売ってあるんですよ」

知らなかった食材や自分の舌で確かめたこのうまさを、「だれかに伝えたくて仕方なかった」という。

卒業後、八木は三陸にとどまり、ネットで注文を受ける海産物の販売会社「三陸とれたて市場」を立ち上げる。単なる魚介類の通販ではなく、その日の水揚げをその日のうちに販売するタイムセールや、漁船に乗り込み漁の模様を中継する船上ライブ、果ては獲れたそばから注文を受ける船上ライブタイムセールなどが話題を呼び、固定客も増えていった。しかし、三陸のうまさを全国の家庭の食卓に届けるまでにはいたらない。また、肝心の地元の漁師には、既存の販路を壊す「よそ者」に映るのか、根強い反発も残っていた。
船上ライブに協力してくれる漁師たちと交わり、競りにも参加するうちに、八木は、不安定な収入、後継者不足といった生産者の苦悩に直面する。

「どこよりも豊富でおいしい海産物の価値が、きちんと知られていない。いや、地元の人たちでさえ気づいていないのかもしれない。価値を知らしめ高め、獲るだけでなく加工や流通にも及ぶシステムを確立すれば、収入は安定し、雇用も生まれる。そうすれば若い人も残るはず」

八木は、主に若手漁師との交流を深め、思いを語り、理解を求める。あわせて、地元では廃棄されることがほとんどだった海産物に、加工という付加価値を添えて商品化する方法などを提案していく。その過程では母校にも足繁く通い、協力を仰いだ。

「徐々に、けれど確実に、ネットワークは広がっていきました。生産を起点に、加工や流通までのすべてを地域で賄う、いわば第6次産業化の青写真もできつつあった。その矢先のことでした」

3月11日の大津波がすべてを飲み込んでいった。

その3日後のこと。瓦礫の中で途方に暮れている八木に、船も家も失った漁師が声をかけてきた。

「ここまで壊れたからには一からやり直しだ。お前が言っていたやつ、やってみるか」

電源の復旧にあわせてインターネットに接続すると、消費者からの声が殺到していた。

「うまいさかな、いつまでも待っているゾ!」「あの味、もう一度届けてくれ」……。

震災1か月後の4月11日、三陸とれたて市場を再開。親しい漁師に無理を言って漁に出てもらった。飛び込んできたのは「大漁」の一報だった。

「過密養殖で疲れた海が大津波に洗われて蘇ったのです」

同時に津波は、漁師たちの心のわだかまりも洗い流してくれたようだ。すべてを失っても三陸の海をあきらめない八木を核に、消費者とつながろうとする仲間が増えた。

「生産者の後ろにはその家族もいる。投げ出すわけにはいきません」

三陸とれたて市場――自分の将来が見いだせなかった一人の青年がつくった小さなネット鮮魚店が、いま、生産者の潮と消費者の潮がぶつかり合う、大きな潮目になろうとしている。

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