太平洋の「洋」と書いて「ひろみ」。瀬戸内海に面する香川県に生まれ、海に遊び、海に育った内藤洋が水産学部(現・海洋生命科学部)に入学したのは、海にまつわる名前を授けられた者の宿命だったのかもしれない。

「水族館の館長になりたいと思った頃もありましたが、いま思い起こせば、それは職業への憧れというよりも、水族館の向こう側にある海への憧憬だったような気がします。選んだというよりも行き着いたのが水産学部。海から離れたくなかったというのが当時の思いに一番近いかもしれない」

大学では環境生体系の研究室に所属。サケの人口採卵にまつわる研究に従事するなかで、当時の日本ではほとんど途絶えていた自然産卵に興味を抱くようになったという。

「カナダでは自然に任せた産卵が続いていると聞きました。紅く色づいたサケが川を埋め尽くして遡上する様を見てみたい。大学を卒業したらカナダに行こうと決めていました」

卒業後は、カナダに渡る費用を稼ぐために、魚類研究家で写真家の故益田一氏が設立した益田一プロダクションに就職し、伊豆海洋公園内のダイビングセンターで主にインストラクターを務めながら魚類研究の分類写真を手がけ、テレビ番組の水中撮影も手伝った。

thumbNaito1「海育ちだし、高校時代は水泳で国体やインターハイにも出場した経験があったのでダイビング技術は難なく身につきました。写真は、卒業研究でサケのウロコから年齢を査定して記録するために撮影していたのでカメラの扱い方は分かっていました」

そんな生活を3年ほど続けても、カナダへの憧憬が揺るぐことはなかった。初志貫徹。カナダのバンクーバーに飛び立ったのは26歳のときだ。

「蓄えたといっても資金はわずか。行くには行けても生活できるほどではありません。でも2年間は帰らないと決めていました。お腹が空いたら現地の川や海でサカナを調達すればいい、そう思っていましたから」

英語も現地調達。アマチュアラグビーのチームに入れてもらって仲間をつくり、チームメイトとの語らいの中で身につけたという。

その間、当初の計画通りサケの遡上を目の当たりにして写真を撮りまくり、益田プロ時代の先輩の依頼でテレビのネイチャー番組の水中撮影などを手がけていたが、渡航して2年後に水中撮影の専門会社に半ば強制的にスカウトされて一旦帰国。しかしカナダの水、空気、空、動物が忘れられなくて再びバンクーバーへ。

「そのときはもう、カナダに行くではなく、カナダに帰るという思いでした」thumbNaito3

以降、それまでに知り合った人たちとの縁が縁を呼び、日本のテレビ局の海外ロケをコーディネートする仕事が舞い込むようになり、南極や北極を含む世界各地を旅しながら自身の作品として動物写真を撮り続け、カナダとアメリカでサケのフォトブックを、日本では、アラスカで追いかけて撮影した親子グマの写真集を出版。その間にカナダの移民権も取得した。

「日本で本を出してくれる出版社を探しているときに、お金がなくなって日雇い仕事で急場を凌いだことがあります。江戸川に潜って水門ゲートを外したりする仕事です。でもね、そんなことしてでも、やりたことをやるために、カナダに戻らなきゃという気持ちの方が強かったし、そう思える自分が誇らしかった」

これからやりたいことは?――サケ、クマに続く被写体を尋ねたつもりが、内藤からは意外なこたえが返ってきた。

「もうはき出す時だと思うんですよ。お金も作品も。だっていつ逝ってしまうかわからないじゃないですか」

まだ50代、インタビュー中に1人前の弁当と大盛りうどんをペロリと平らげるほど食欲も旺盛。生きる意欲に満ち満ちて見える内藤だが、30代末には死を意識するようになっていたという。

「動物写真家の星野道夫さんをご存知ですか。テレビ番組の取材でカムチャッカ半島を訪ねた際にヒグマに襲われて亡くなりました。1996年のことです。グリズリーの写真集を出すほどクマの行動を熟知していた星野さんですら予期できないことがある。こんなことやっていたらいつ死ぬかわからない。それでもやり続けたい。だから蓄えるのではなく放出する。お金なんか残しても仕方ないじゃないですか」

数年前にバンクーバーで購入した家は、内藤の留守中も友人が寝泊まりできるようにオープンにしてある。2014年には東京で入場料無料の写真展を開いた。

質問を変えて、(これから撮影したいものは? 何を追いかけますか?)と尋ねると、ひと言「海」というこたえが返ってきた。海の生物ではなく、ただ海、この地球上に生命をもたらした海……これまでに内藤がカメラに収めてきたのは、動物ではなく、自然の中の生命だったのかもしれない。

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