高校入学と同時に入部した茶道部で、所作や立ち居振る舞いを身につけようと思っていた。併せてバレエや声楽のレッスンにも通ったのは舞台に立つ自分を夢見ていたからだ。大阪生まれの大阪育ち。そこは宝塚もほど近い、芸能には寛容な土地柄だった。

thumbInoue2そんな彼女が医療職をめざすようなったのは、大阪府主催の海外交流事業の学生代表に選ばれて中国に渡った、高校2年生のときだった。そこで目にしたのは、男も女も、老いも若きも生きるために働く、中国の人たちの逞しい姿だった。

「働く、労働するということをまるで他人事のようにしか思っていなかった自分に気づかされました」

大人になったら働く、それは分かっていても、その現実を直視しようとせず、夢を追いかけることで言い訳をしていた自分に、はじめて向き合ったのかもしれない。

「そんな現地の様子を目にして、同行した友だちは口々に将来のビジョンを語り出しました。でも私は語れなかった。好きなことだけにしか関心のなかった自分に気づき、口ごもるしかなかったんです」

帰国後、夢を追いかけていた高校生が真剣に将来を見つめ、「人の役に立つ仕事に就きたい」と思うようになる。そんな折、

「保健体育の時間に先生が助産師さんの話をしてくださったんです。先生のお母様が助産師さんで、その体験談をもとにしたとても臨場感のある話に引き込まれました」

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産気づいた妊婦がタクシーで到着したものの、ベッドまで運ぶ余裕もなく、そのままクルマの中で取り上げた話が特に印象に残っているという。

助産師、それは人の役に立つ仕事……将来の目標が決まった瞬間だった。

以降、井上は助産師に加え保健師の資格が取得できる看護学部をめざして受験勉強に励むが、目標設定の出遅れが響いて志望が叶わず、短大の栄養科に進むことになる。しかし井上はあきらめなかった。短大での学修に加えて予備校にも通いながら受験勉強を継続。その努力が実って、短大卒業の年に北里大学看護学部に合格する。

「親は短大を卒業したら自立してくれるものだと思っていたようですが、私は短大生というよりも受験生のつもりでした。でも短大の単位もきちんと修得したので、栄養士の資格も得ることができました」

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相模原キャンパスにやってきた彼女は、1年次、将来の伴侶となる獣医畜産学部畜産土木工学科(現・獣医学部生物環境科学科)のフレッシュマンと出会うなど、「3年間は学生生活を楽しんだ」という。しかし、助産師課程は狭き門。その履修者は、成績ばかりでなく、やる気や素養も考慮して選考される。また、看護実習に加えて助産実習も課され、国家試験に向けた受験対策も怠るわけにはいかない。もちろん、卒業論文も書き上げる必要がある。4年に進級すると「これまで経験したことのないくらい勉強漬けの、忙しい毎日」がはじまったという。

「私は看護学部の5回生です。それまで助産師課程を履修した先輩の中で、不合格になった人は一人もいませんでした。そんな伝統に背中を押されて、かじりつくようにして頑張りました」

その甲斐あって助産師、保健師、看護師のすべての国家試験に合格。卒業後は地元・大阪の病院に助産師として勤務することが決まった。

看護学部を卒業した井上は、その後、縁に導かれるかのような人生を歩むことになる。最初の勤務先となった病院は、

「私が生まれた病院なんです。私を取り上げてくれた助産師さんのもとで働きました」

井上の職歴は、生まれた場所、いわば人生の原点からスタートした。そしてその1年後、「先端医療の現場で学びながら働きたくなって」北里大学病院に入職。学びの原点に戻ってきた。1997年から保健師として勤務する神奈川県秦野市は、大学時代にはじめて臨地実習を体験した場所で、それも保健師実習だったという。

「保健師の仕事は対人サービス業務です。秦野市の保健師として母子、成人、高齢者、介護などさまざまな保健業務に携わるなかで、人対人のサポートでは限界があることも分かってきました。市民の健康の維持増進は、暮らしやすい街、働きやすい街、生きていきやすい街であってはじめてできることですよね。将来は、そんな街づくりに向けた、たとえば施策の策定などにも関わっていければいいな、なんて思っています」

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人生の原点から学びの原点に、そして職場の原点に戻ってきた。それは、人の役に立ちたいと思った初心を忘れることなく、人の役立つ=人を幸せにする原点に向かう、導きなのかもしれない。

※2014年2月27日取材

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