生まれ故郷の長野市の総合病院で栄養士として働いていた宮澤靖が、単身、自力でアメリカの大学病院に留学したのは、北里保健衛生学院(現・北里大学保健衛生専門学院)を卒業して6年後のことだった。

picsMiyazawa_01「北里でチーム医療を学び、コ・メディカルスタッフとしての自覚をもって働き始めたのに、栄養士の職場は相変わらず厨房の中。チーム医療は言葉先行であることを思い知らされました。でも、北里で学んだことに間違いはないはずという思いがあって勉強は続けていました。そこで出会ったんです、NSTという言葉に……」

NST(Nutrition Support Team)=栄養サポートチーム。1960年代後半、食事を経口摂取できない患者の栄養補給法である中心静脈栄養法が開発されたのを契機に、医療における栄養管理の重要性が再認識された欧米で広まった、診療の一環としての栄養管理体制だ。医師や看護師を含む多職種の専門家がチームを組み、症状や疾患に応じた栄養管理が行われる。栄養士が重要な役割を担うのはいうまでもない。

しかし、日本のNSTは、中心静脈栄養法とセットで輸入されたため、それ以外の診断や治療での応用が遅れ、その本格導入は1990年代後半まで待たなければならなかった。宮澤が英語の文献を漁り、独学でNSTを知ったのは90年代に入って間もなくのことだ。

「辞書を片手に英語の文献と格闘しながらNSTを勉強するうちに、自分が目指すべき方向がここにあると確信しました。もう行くしかありません」

picsMiyazawa_04とはいえ目指す先はNSTの先進国アメリカの医療機関。もちろんつてなどあるはずもなく、できる手立ては「当たって砕けろ」の正面突破しかなかった。

「手紙を出しました。やはり辞書を片手に思いの丈をつづり、30通ほど出したでしょうか。返事があったのは4通。2通はNGで、1通は3か月、もう1通は4か月なら認めるというものでした。少しでも長い方がいいから4か月の方、エモリー大学病院に決めました」

1993年に渡米。エモリー大学病院で宮澤は「初日から病棟に出されて」、2年半にわたる実地トレーニングを受けて帰国する。4か月のはずだったが、「行けばなんとかなる」と見込んでいた通りの、宮澤の意欲が勝った粘り勝ちだった。

 

1995年に日本に戻った宮澤は、長野市に新設されたばかりの公立病院に入職する。新設ならではのフロンティア精神に期待してのことだ。しかし、いくらNSTの必要性を訴えても、「前例がない」のひと言で片づけられてしまう。「公立病院の限界」を痛感した宮澤は、新天地を求めて職場を変える。移った先が、日本の全科型NSTの先駆けとなった三重県の総合病院である。

「すでにNSTが設置されていたので、気持ちよく仕事ができたし、職務上のジレンマを感じることもありませんでした。でも、そのころから、もうひとつの思いが芽生えていたのです」

北里で学んだチーム医療が理想ではなく、現実であることを確かめたくてアメリカに留学。本場のNSTを学び、その体験に誇りをもって帰国したからには、「その普及に努めたいと思うようになっていた」というのだ。

そんな時期に出会い、意気投合したのが近森会理事長・院長の近森正幸先生だったという。

 

picsMiyazawa_02「近森理事長はチーム医療やNSTにとても理解のある方で、とくに高齢者医療には栄養とリハビリが欠かせないというしっかりとしたビジョンをお持ちです。意気投合してお世話になることになりました」

ここから他の医療スタッフを巻き込んだNSTづくりがはじまる。

「まずは顔と名前を覚えてもらうところからはじめました。これまで厨房の中の人と思われていた栄養士が、病棟で患者さんのお腹に聴診器をあてたり、カルテを見たりするのですから、仲良くなって信頼関係を築く必要があります。でも、そこまでできるようになればしめたもの。NSTの体制が築ければ治療成績は必ず上がります」

手術後の経過が良くなったり、薬の必要がなくなったり……地道に実績を残した結果、患者が良くなる→スタッフが楽になる→コストが下がる→地域の評判が高まる→……の良循環サイクルが回り出した。

もう、病棟を出入りする宮澤に違和感をもつ者はいない。次に宮澤が取り組んだのは、近森病院に根づき芽吹いたNSTに花を咲かせ、その種子を放つための準備だった。

 

picsMiyazawa_05「二つ返事です。何の躊躇もありません。行きます。そう即答しました」

こう話す真壁昇は、北里大学保健衛生専門学院で非常勤講師を務めていた宮澤の教え子である。北里を卒業して千葉県の病院に勤めていたが、かつての宮澤と同じように、管理栄養士として、やるべきことがそこにあるのに、手出しのできない自分の立場にジレンマを抱えていた。そんなときに受けた、宮澤からの電話だった。

「近森に来い。一緒にやろう。そういってくださったんです。待っていました。宮澤先生のもとで働きたいと思っていましたから」

宮澤が右腕としてスカウトした真壁が臨床栄養部の科長職についたころ、新潟からクルマを駈って高知までやってきたのが、元プロミュージシャンの佐藤亮介である。やはり宮澤の教え子だ。

「バンド活動の無理がたたってからだを壊し、療養中に読んだのが宮澤先生の論文でした。高校は中退、すでに年齢も20代半ばでしたが、なぜか心が動き、高校にも入り直して入学したのが宮澤先生と同じ北里大学保健衛生専門学院です。近森病院には、北里の卒業を控えた最後の実地研修でお世話になりました」

picsMiyazawa_03しかしそのとき、佐藤はすでに管理栄養士としての道を歩むつもりはなく、故郷の北海道に帰って飲食店を開こうと思っていたという。

「せっかく勉強したのだから、一度は本物のNSTの現場を体験したいと、ただそれだけの思いでやって来た近森です。それ以上のことは考えていなかったのですが……」

「佐藤、近森に来い!」。今度は真壁が動く。かつての自分と同じジレンマを佐藤に感じて、スカウト、そして説得した。

 

2013年3月現在、近森会4施設で働く臨床栄養部のスタッフは28人。ベッド数452床の近森病院だけでも21人を数える。みんな宮澤を慕って全国からやってきた管理栄養士だ。「1回300食以上の食事を供給する」病院に管理栄養士の配置を義務づけた法律に照らすなら、その人員は2人で十分だが、コ・メディカルスタッフの配置を給食数で規定する法律の方がナンセンスである。

picsMiyazawa_06近森病院臨床栄養部長としてばかりでなく、大学院教授としての顔も持ち、院内で、大学院で、そして全国各地で繰り広げる講演活動で、後継者の育成に余念がない宮澤。真壁や佐藤をはじめとした教え子たちが、NSTの種子となって各地に散り、全国の病院で花を咲かせる日も、そう遠くはなさそうだ。

 

※ 2013年2月25日 取材

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